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代表挨拶

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代表挨拶

イスラム教徒でない私がなぜ、ムスリムファッション⁉

私、ジャングルに一年住んでいました!その言葉を福島の地で初めて話したのは、税務署の確定申告書でのアルバイト。皆さんの驚いた顔、それに驚いた私。

私は、1996年4月から、1997年マレーシア、ケランタン州にある、ジェリという町近くのジャングルの中に住んでいました。

そこは、電話も、電気も、水道もない地域で、

もちろんその頃、インターネットや携帯等ない時代でしたので、連絡の手段は、巨大なトランシーバのみでした。

なぜ、このジャングルに住む事になったかと

いいますと、私は東京農業大学農学部国際農業開発学科に在学しており、その中に海外研修という単位が、ありました。大学での専攻が熱帯果樹ということもあり、熱帯果樹の原産地域であるマレーシアで実際に、生活し、熱帯果樹の勉強をしたいと思い教授に相談したところ、この地で農業を行っている方を紹介して頂き、研修につながったのです。

最初にこの地を訪れた際、ボスに言われた言葉は「生きて日本に帰りなさい」でした。

大学生の私には、その言葉の意味がよくわかりませんでした。ジェリの町から更に更にジャングルに入ると道に「象注意」の道路標識がありました。日本でも動物注意の標識はありますが、こんな道路標識があるとは?面白い!私のジャングル生活が始まったのです。

ジャングルでの生活は、日本とは全く違います。

買い物は市場です。肉、もちろん切れていません。塊です。リアル牛。

そのまま、ただ吊るしてあるだけです。好きな場所を切って買うだけ、どの部位でも、値段が一緒なので、よく見て選んで美味しそうな場所を切って買います。

スーパーの肉では、牛だかなんだかわからないので、あの買い方が一番いいと今でも思います。

鳥も毛をむしっているだけですし、「ポトン」というと鉈でぶつ切りです。魚は目が白く、ハエだらけ、菌とか考えては生きてはいけません。身体も心も慣れてしまえば、どこでも人間生きていけると感じました。

イスラム教に出会ったのもこの地でした。

イスラム教と言われても何のことやらすっかりわからず、気づけば、周りがみんなイスラム教徒でした。私の住んでいた、ケランタン州はマレーシアの中でも、タイ(仏教)との国境線沿いにあり、イスラムの戒律が非常に強い地域でした。

レジに並ぶ場所が、男女別であったり、恋人同士が手を握ったり、キスをしたりすると宗教警察につかまってしまったり、役所では美人は採用しないとか。

朝から晩まで変な歌が流れていると思えば、コーランですし、断食月はみんな、日中、食事も水もツバも呑み込めないので、やる気も下がり仕事もしないですし、水は黄色く、白いTシャツが洗濯したら黄色になりますし、交通機関は時間通りに全然来ず、

半日バス停で立ち尽くす事も多くありました。

日本とは全く違う習慣や文化がありました。

ヒジャブに初めて出会ったのもこの地でした。なぜ暑いのに、てるてる坊主みたいのを被っているのだろう?しかもみんな一緒だし。学生はみんな上から下まで白いテルテル坊主。おしゃれなんて事は全くなく、

品質とかそういうレベルでもなく、暑そうで、蒸れて臭そうでした。被らされて可哀そうぐらいにしか、その頃の私思っていませんでした。マレーシアから帰国後、大学を卒業し、

農業関係の企業に就職した私は、仕事に夢中になりました。25歳で結婚、男性中心の会社で、男女関係なく働き、5年目で会社初の女性主任となり、会社最大の部の長として働き続け、30歳を越えた頃、子供を産むか、産まずに仕事を続けるかを考えるようになりました。土曜日曜が働けない者は社員としては認めないというのが、社長の方針でしたので、実家の遠い私は、子供を産めば社員でいられなくなるのは確実でした。今まで頑張ってき会社での地位がなくなる、この状況を20代の頃の私は考えもしませんでした。日本で女性が働いていく事の厳しさを痛感しました。悩みながらも、子供を産むタイムリミットは迫り、周りからのプレッシャーも増えてきた頃。会社の人から言われた言葉を今でも忘れる事ができません。「働いていること自体が日本人の恥なんだよ!」いつもの私なら気にしなかったと思いますが、その時の私には耐える事ができませんでした。

その後、不妊治療を行い、無事に長女を34歳で出産、出産を期に会社を退社しました。育児に入り、仕事のような段取りなど、育児には通用しない事。育児に休憩も休日もなく、24時間フルタイムだということ、子育ての大変さを痛感しました。

昼間怒ってしまった事を子供が寝ている時に「ごめんね」と謝る日が続きました。今まで仕事をしている時は、大人との会話が恋しいと思った事はありませんでした。育児に入ると、子供と一対一が耐えられなくなりました。実家の遠い私には、会社以外で福島の地に友人は居ませんでした。ママ友を作るために広場を周り、ママ友の輪を増やしていきました。出会ったママ友は、みんな良い方ばかりで、ママ友同士で子供や家族の相談をしたり、子供を連れて外に遊びに行ったり、遊び場や病院等の情報を交換したりと私にとってママ友が本当に大切な存在となり、支えられました。福島の地で東日本大震災に遭い、福島原発の影響で実家に避難し、家族やママ友とも離れ離れになった時も、ママ友みんなで連絡をとりあい、支えあったことが救いになりました。私は、育児の中で、多くの育児中女性に会い、彼女たちの有能さ、忍耐強さ、行動力を感じました。そして彼女達の力が社会に活かされていない事を、勿体ないと感じました。私と同じような状況で会社を辞めた方も多くいる事を知り、この女性達を活かせる会社を作りたいと考えるようになりました。商材を何にするかと考えた時、私の大学時代の珍しい経験の中にあった、臭そうなヒジャブを思い出したのです。イスラム教徒の市場を調べていくと、想像もしていなかった市場の大きさを感じました。「これはいけるかもしれない!」と思い、事業を興す為行動を始めました。まず現地に行かなければと思い、2015年4月マレーシアへ渡り、ヒジャブについての市場調査を行い、ファッションとしてのヒジャブと、ムスリムファッションという存在を知りました。ボロボロになって毛玉だらけの子供用ヒジャブを着けている子供の姿、マレーシアに住んでいた頃とあまり変わらず同じデザインのヒジャブ。近代的な高級大型ショッピングモールに人々がひしめき合いながら、人数オーバーで壊れそうな、エスカレーターに乗って上っていく姿をみて、「このビジネスは生ける」と確信しました。その半年後マレーシアでテスト販売を行い、現地と日本の価格の差、こちらが売りたいものと現地が買いたいもの違いを感じ、海外販売の難しさをしりました。

まず、日本から始めようと思い、在日ムスリムとの交流を深め、ヒアリングと改良を行う中で、在日ムスリムの方々が日本で生活する中での苦悩を知りました。日本でヒジャブを作り、販売をすることが、日本でのイスラム教の偏見をなくし、在日ムスリムの方々の光となる事を聞きました。

2016年2月、3つのwatasiを掲げ、合同会社WATASI JAPANを設立しました。

  1. 育児中の女性の思いを、イスラムの女性の思いを大事にWatasiを大事に。
  2. 日本と世界を橋渡しWATASI…
  3. 和を足すWatasi

~日本の女性からイスラムの女性へ~

WATASI JAPANは挑戦し続けます!

代表プロフィール)

名和淳子(なわじゅんこ)

1975年2月 愛知県産まれ、横浜育ち。

1993年4月東京農業大学 短期大学部 生物生産学科 入学

1995年4月 東京農業大学 農学部 国際農業開発学科編入

1996年4月 マレーシア ケランタン州 にて農業研修の為1年休学

1998年3月 東京農業大学 農学部 国際農業開発学科卒業

1998年4月 農業関連企業に入社

2012年12月 出産育児を期に退社

2016年2月 合同会社 WATASI JAPANを設立

2017年3月 ふるさとグローバルプロデューサー取得(中小企業庁 補助事業)

現在に至る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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